元阪急や日本ハムで監督を務められた上田利治氏が他界しました!
僕の印象では半休もとえ阪急ブレーブズを率いて虚人の前に立ちはだかるオッチャンにしか見えなかったけど、球界では有数の統率力を発揮した名将だったんですよ!
高校時代(徳島県海南高校)は秀才だったが、野球の練習と生徒会活動を並行して行っていたから早朝に起きて勉強していたらしい。(上田家はけっこう裕福な家庭で氏は5人兄弟の長男だった)
関西大学入学では「推薦入学でどうか?」とのオファーを断り一般入試で400点中298点を取り+100点の約束(?)と合わせて398点で全受験者中のトップ合格したようです。
(その生真面目かつ一本気な性格があの前代未聞の日本シリーズでの、長時間の猛抗議を行うパワー?になった)
プロ入りの際は「僕にできるんかな?」と困り顔の氏に広島東洋カープは「出向社員としてプレーしてほしい」との契約でプロ入りしました。(結局は故障もあって3年で引退して25歳で二軍コーチ就任したが最年少記録です)
広島カープを退団後は西本幸雄氏率いる阪急でコーチを務め監督修行を積み、黄金期の阪急ブレーブズの監督に君臨しました。(1974~78・81~90)
僕としては1978年の日本シリーズ最終戦の大杉選手(故人)のホームラン判定に激昂して、選手をベンチに引きあげさせて1時間19分にわたる猛抗議の末に折れて試合は再開されたが、敗戦して引責辞任しました。
そして1981年に監督復帰しましたが、チームは優勝争いとは程遠い状態にもかかわらず建てなおしに成功して1984年のリーグ優勝につなげました。
選手をほめる時には「ええで、ええで!うちの選手はみんなええで!」という感「ええで」を連発するので有名でした。
そして95年には日本ハムファイターズの監督に就任して5シーズンで何度かの優勝争いを演じ名将ぶりを発揮しました。(そこでも田中幸雄、岩本勉などを抜擢して主力に育てあげた)
そんなこんなでもっと早く氏をプロ野球ファンとして評価すべきだったと痛感しましたよ。(氏があの世でもベンチに座って作戦を練っていることを祈りますよ!)